しかし問題点も多々あるのも事実だと思いますし、いたずらに難解でかつ内容が感じ取れない、あるいは伏線が未消化であるという批判意見が少なからずあるのも納得できる部分があります。まずもって、良くなかった(あるいはフェアでなかった)のは放映当初の宣伝でしょう。『SFサイコサスペンス』では説明不足で、ジャンルとしては実質もっと複雑で模糊曖昧としている。SFではあるけど、ファンタジーとしか言いようのない超現実的な描写が頻発している以上、やはり外せない説明文言としては「メタフィクション」を番組紹介内に入れるべきだったのでは。科学的な規律が作品上において外れてしまっているということは、一筋縄な視聴姿勢では到底ついていけない事を意味しているわけで。つまりこの場合のメタ構造とは、既存作品の様々なジャンルを煮合わせているという事であり、その中には作品内作品(クイズ番組やアメリカン・カートゥーン等)から設定を語るという手法も含まれており、オーソドックスなストーリーテリングを期待して観た場合には大いに肩すかしを食らうことになる。…とはいえ、シリーズ構成の全体像を放映開始前に構築し終えている作品がスケジューリングの都合上(もっとも今作品を担当した佐藤大氏のこれまでのキャリアを見るにつけ、あえて打ち合わせでのライブ感覚を重視して展開の先行きを不確定にしている確信犯的部分も感じたりするけど)すくないと思われる現在のアニメ製作状況においては、公式アナウンスにおいて作品の端正で精確な全体像を提示しろというのは酷な要望であるのかもしれません。観終えるまでは、完全に説明することができない。私たちアニメファンが日々堪能しているのは、そういったドライビング感覚を楽しまないことには付いていけずに立腹してしまう類の娯楽カテゴリー群なのかもしれません。
さて先日、SF小説の翻訳家である浅倉久志氏のエッセイ集を読んだんですけど、そこに作家のP・K・ディックの自著に対してのコメントが紹介されていて、大意で述べると“小説のラスト部分にこそ作者のメッセージがあると思う人々がいるが、それは違う。作品中盤までに述べられたこと自体に作者が言いたいことは詰まっており、オチは便法にすぎない”と、なんとも端的に。この点においていわゆる一般小説とSF作品の大きな違いがあるようにも思えるのですが、ディックが説明している“オチ自体は単なる幕引きのための方便である”という構成法が、ここ数年のTVアニメにおいても感じられるような気がするのはおそらく私だけではないと思う。実はこれまでは「それは以前にくらべて制作者たちの定石への敬意が軽くなったせいだろう」とか考えていたりもしたんですが、本作を肯定できた今、あらためてもう一つの可能性を追認できました。アニメは表現手法としての成熟/洗練度において徐々にSF小説のレベルに近付きつつあるのだと。
だからたとえラストシーンの一日後にビンスやリルたちが全滅していたとしても、彼らが見つけた希望になんら矛盾や欺瞞があったとは私は思いません。結果ではなく過程が大切、死に方よりも生き方の方がずっと重要なのだと、すべての虚構作品が根底において訴えているのだと考えているので。
追伸:今回も佐藤大氏はそうとうに危うい綱渡りを見せていたと思う。けれど前作「交響詩篇エウレカセブン」よりは比較的手法ミックス上のまとまりを見せていたので、その点においてこれからの成長に期待したい(偉そうな語彙しか出なくてすいません)です。