それが地獄から甦った少女・あいが生まれ里にもたらしたこと。劇中で明確に説明はされていなかったけれど、もともと霊感に少々めぐまれていた彼女は強い怨みの念により地獄を支配する何者かと交信することに成功し、そこで一種の契約が結ばれたということかと。それが彼女が地獄と現世を橋渡しすることになった由縁と思われる(このあたりはおそらく次回に補完説明があるかと予想される)。
社会構造のツケを押し付けられる形になる生け贄の存在に、明確な罪などそもそもが存在し得ない。そこに見いだされる理由は、すべてがこじつけという名の単なる言い訳。ゆえに、輪廻は永遠にめぐり続ける。憤りと哀しみは持ち越され続けることとなる。そこにある本質はただただ理不尽さと同調圧力の暴挙のみ。
となると、地獄少女の苦しみをいまや理解することが叶った柴田親子が為すべきこととは苦しみの輪廻を否定する行動を起こすこと。それはつまり自己犠牲に他ならないと思うのだけど、さて…
ラス前のこの過去編にて、本作が仏教説話の変奏エンターテインメントであることが明らかになったと思う。村人の間で追いつめられていくあいと仙太郎、その家族たちといったそれぞれの関係性の描写は簡潔でありながら的確なものでした。様式美と写実性を共存させた作画もお見事。