2006年08月14日

エルゴプラクシー#23(終)「代理人」

「代理人」、プラクシーとは何かというと『寓意』のキャラクタライズなんだと思う。だから(そもそも自身が人工生命体である)エルゴプラクシーがロムドを創造したとかいう次元がぶっとんだ話も、プラクシーワンってなんで出てきたの? とかよく分からない点は無視しちゃっていいんだと思う。というか今そう決めた。

『死』をことごとく遠ざける(ただ一人の背にすべてを負わせる形で)形で繁栄するロムドという都市において、お姫さまとかわいそうな生け贄が出会い、お互いをぶつけあって同じベクトルに変化することができた。そのハッピーエンドをしみじみと味わえたんで、まあ好きですよ。このアニメ。

ただね“死を想ってこそ人は心を活かしきることができる”(コギトウィルスに感染したオートレイヴは死を理解する-この点はクイン親子と交流するピノにおいてちゃんと描かれてました-ことで人間と変わらぬ精神を得た)というアクチュアルに出来うるテーマから中盤以降は逃げていたようにしか見えない構成になってしまっていたのはやはり残念です。そこさえ押さえておけば、まだしも分かりやすさが上がってたと思うし。あとはやっぱり科学考証をうっちゃりすぎてるのがきついかなあ。いや、でもそういう雰囲気ドラマって欧米ではよく作られてるよね… だからそこはぎりぎりセーフなのかも。

しかしなんにせよ最終回を単体としてみれば、脚本(特にビンスの諸台詞が印象的)も作画(深みのある青空きれいだったし。でもあれホログラムだね)も演出(村瀬監督はふいんき得意なんだからあとは何とかロジック面をねー)も満足できるものでした。ピノが着ぐるみの手でリルを救出するシーン、感動したけど笑っちゃった。っていうかそこはビンスの手でないととか。

白リル(モナドプラクシーって超美少女だったんだな)をリアル、現実と呼んでいたのは割と含蓄が感じられたかなと。あえて自分の世界に閉じこもらざるを得ないほど、現実はつらい。だからその逃避の道をやさしく導いてくれる少女天使こそが現実的な救いそのもの。だけど、ビンスは理念を信じて生きる道を選んだ。たとえ後に自分の選択が欺瞞だったと打ちのめされることになろうとも。プラクシーワンが最期に伝えた(そうか、だとすると彼はエルゴプラクシーの上位自我の権化?!)ようにそうすることが<創造主>への裏切り、復讐となるのだから。人には、だれでもそれぐらいの豆鉄砲を打つぐらいの自由を握る力はある。

というわけで、私としてはぎりぎり及第点ですよ。手際はよろしくないけど熱意というかオリジナリティと呼べるものは感じられる作品として締めくくられたと思う。万人向けでないとはいえ一見の価値はあると思いますよ。特にクイズ番組回や少女スマイル編といったイレギュラー回はくりかえしの観賞に耐えうるアイロニーが期待できますぅ。いやこれは別に皮肉コメントでないからね

<色々とよそさまの感想をめぐって慌てて追記したのが以下の文>
ラストシーン、避難宇宙船から旧セレブ人類様が帰還なされてる描写だったんですのね。ビンスは厳しい環境と旧人類様との両方と闘うって決意してるんじゃん。悲壮すぎだぁー こ、これはハッピーエンドといってはいけないのかもしれないね。しかしブーメラン計画に上手くのっかれてのほほんと衛星軌道で世代重ねてきた連中にはむかつくな。SF小説では主人公サイドはそういうテクロノジー優位者連に置かれることが多いけど、このアニメは逆に彼らに置いてけぼり(河童に似た地底生活者たちはその成れの果てか、あるいは早く降りてきすぎた人々?)された側やさらにはいいように炭坑のカナリアの役目(人工出産により計画配置されたドーム市民たち。彼らに技術提供や社会運営を教えたのがプラクシーたちということか)やら猟犬ポジション(そのプラクシーたちに最終的には露払いさせるというのだから…)を担わされた側に視点を置いたわけか。けっこう斬新かも。しかしビンスたちがんばれ。超がんばれ。たとえば、お得意の擬態によって社会に溶け込むとか…(でもそれだって内実としてかなり地獄だよな)
posted by 三和土 at 01:39| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ/TV番組感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック